榮太樓

1月のお話し-梅ぼ志飴の話 その弐-

記念すべき第1回にご紹介した「梅ぼ志飴」ですが、実はまだまだお伝えしたいエピソードがたくさんあります。(※2024年4月配信の「梅ぼ志飴」もあわせてご覧ください)

梅ぼ志飴の名前の由来は前回知りましたが、どうして紅色と黄色の二種類あるのですか?

もともと「梅ぼ志飴」はその名の通り、本紅(ほんべに)で着色された紅色一色でした。しかし、この本紅は非常に高価なものでした。当時の価格事情について以下のように記されています。
「当時の仕入れ品の中で一番小さくて、一番高価な品は食紅です。当時の梅ぼ志飴は総て食紅を使用していたので、現在の色とは違って実に素晴らしい色合いで、上生菓子、特に藷蕷煉切(じょうよねりきり)に使用すると最高でした。この食紅は漆塗の木箱に10匁(37.5g)入って20円でした。昭和初期の梅ぼ志飴はバラで100匁(375g)40銭。年季奉公中の小僧さんの給料は年額で十三、四歳で4円、年季明けの初任給が月額10円であったというから、いかにこの食紅が高価なものであったか想像つくのである。」

榮太樓初代は高価な食紅だけを使っていては儲からない。どうにかしてこの飴を安価に提供できないか、と考え着色する前の無着色(いわゆる飴色)のものと、紅色に着色したものを混ぜて売り出しました。
すると、黄・紅の二色の配色がかえって華やかさを生み出し、商品の価値を高める結果となりました。
こうして現在のような姿の梅ぼ志飴が誕生したのです。

また梅ぼ志飴の品質特性の一つとして「口が荒れないこと」が挙げられますが、これにまつわる興味深い逸話も残されています。
「江戸末期から明治の頃、京都の祇園町、先斗町をはじめ関西の一流の花街の芸妓や舞妓たちは榮太樓の梅ぼ志飴を唇に塗ってから口紅をつけると口唇が荒れず、照りが出て乗りが良くきれいに化粧が出来る、といって小さな小筥(こばこ)に梅ぼ志飴を入れ鏡台に置いて愛用していたという。」
また彼女たちを贔屓にする客たちが上京の際に、東京の土産にしてほしいとせがまれ、榮太樓の梅ぼ志飴を買って帰ったことが、関西に榮太樓飴が広まるきっかけの一つになったのです。