榮太樓

臨時号-正月飾(具足飾)の話-

毎年本店では正月飾りで鏡餅を展示しています。
鏡餅飾りは地域によって呼び名が異なりますが、榮太樓では「具足飾(ぐそくかざり)」と呼んでいます。
今回はこの「具足飾(ぐそくかざり)」についてのお話です。

毎年本店で飾られている正月飾りについて教えてください。
また鏡餅飾りはなぜ「具足飾」と呼ばれるのですか。

年始を迎えるにあたり、「門松」や「鏡餅の飾り付け」は一般的には12月29日に「すす洗い」、30日に飾り付けが多く、大晦日に行うのは一夜飾りといって避けられていたため榮太樓では12月28日に行っていました。(現在は12月27日前後に飾り付けが通例)
これは年末年始の賑わいや混雑を考えての事のようで、28日の飾りつけがギリギリの日だったそうです。正月の鏡餅飾りの名前は、全国の地域によってさまざまですが、榮太樓では「具足飾(ぐそくかざり)」と呼んでいます。

さて、具足飾という言葉にはどのような意味が込められているのでしょうか。
具足とは甲冑すなわち鎧・兜のことを指し、これらは今でも町で見かけるように鎧檀の上に飾られることが多いですが、戦国時代以降、武家では正月に甲冑の前に鏡餅を供えたが、この鏡餅のことを「具足餅」あるいは「鎧餅」と称していたそうです。この具足餅を正月11日に切って食する祝辞を「切る」の言葉を忌み嫌い「具足餅鏡開き」と言ったようでした。
武家と町人の町である江戸では、この習慣が引き継がれましたが町人の家には甲冑がないことから、鏡餅の飾り付けそのものを甲冑の飾り方に模して、鏡餅全体の姿が具足を飾ってあるように見えるようにしつらえたことから「具足飾」と呼ばれるようになったようです。

この飾り付けの手法は代々受け継がれ、榮太樓の鏡餅は江戸時代の飾り方を今でも踏襲しています。
榮太樓の正月恒例行事は二つあります。

一つ目は町火消による「木遣り(きやり)※1」と「梯子乗り※2」が行われます。
町火消は江戸・享保より江戸市街を縦割りにしている隅田川を境として、江戸城を中心に繁華なところを占めている川の西側を「いろは」の文字を当てて四八組に区分され発足したもので榮太樓は第一区三番組の「ろ組」に所属しています。
揺れ動く梯子の上で演じられる「遠見(とおみ)」や「谷覗き」など約20種類の妙技は、江戸時代から今日まで人気を呼ぶ正月の風物詩として定着しています。

二つ目は正月明けに行われる「江戸太神楽・獅子舞厄払い」。
当時日本橋檜物町(現在の丸善ビルあたり)に住んでいた江戸太神楽※3の芸をする「丸一 鏡味小仙」の一座「丸一仙扇社中」による曲芸、獅子舞による厄払いが本店内で演じられます。

こうした昔から続く正月の伝統行事は今でも大切に引き継がれ、毎年楽しみにしているお客様からも大変ご好評頂いております。



2024年12月



※1 「木遣り(きやり)」とは
重い木材などを運ぶときに音頭を取りながら掛け声をかけ、力を一致させて運送するための労働歌。
江戸時代初期、新興地の江戸では、埋立や武家屋敷の建築、町並みの整備などの工事が大々的に行われ、大勢の鳶職たちがこれに従事し、その際にこの「木遣歌」(労働歌)が盛んに唄われた。
それらが次第に洗練され、本来の労働歌から祝議の時に歌うものへと形が変化し、上棟式をはじめ、祭礼や各家の祝辞の時などにその町内の鳶の者たちによって唄われるようになったといいます。

※2 「梯子乗り」とは
「梯子乗り」の由来は、梯子は火消しの道具の一つであり、火事場ではまず高い所に上って火事場の方角、延焼の方向、火の勢いなどを見極めたり、人命救助にも使われたが、このような場合の身軽な仕種と熟練した技の訓練のためと、一方ではこれらの動作を市民に披露することで火の用心の重要性を訴えたデモンストレーションの役割も果たしたと言われています。

※3 「江戸太神楽」とは
「大神楽」と書いて「だいかぐら」と読みます。
大神楽の起源は平安時代までさかのぼり、神社に伝わる「散楽」という曲芸がその源と言われています。
大神楽が人々の人気を集めたのは江戸時代になってから。1669(寛文9)年に江戸城吹上の庭で将軍家の上覧に供し、それから江戸へ出ていく事が恒例となり、やがて移り住むようになったといいます。
江戸に移ってからは、江戸の人々の好みに合わせて獅子舞はよりユーモラスになり、当初は余興であった曲芸の部分が次第に人気を集め、人々に愛される芸能として人気を博しています。