榮太樓

12月のお話し-名代金鍔の話-

榮太樓の代表菓子の一つ、「名代金鍔」。今の地に店を構えたきっかけとなる大切な商品です。
今回はその「名代金鍔」のお話しです。

榮太樓ではなぜ名代金鍔として、こだわりを持ち、大切にしているのですか?

榮太樓初代(幼名栄太郎 三代目安兵衛)が、安政年間に今の本店の地に独立店舗を構えることが出来たのは、彼が親孝行で働き者であったことと、多くのお客様からご贔屓をいただいた金鍔があったからです。
幕末の頃「日に千両、鼻の上下、臍(へそ)の下」と川柳にも詠まれたほどの賑わいを見せていた魚河岸に集まる大勢の人たちを相手に橋の南東詰めにあった「伴伝(ばんでん)※」の軒下を借りて屋台店で金鍔を焼いて売っていました。
(※「伴伝」とは現在のコレド日本橋の北西の一角にあり、畳表を主業としていた。)

榮太樓が今でも金鍔を大切にしているという当時の記録があります。(日本経済のパイオニア 森村市左衛門 板橋守邦記より)


『前略― 安政の大地震がおこり、京橋にあった新築したばかりの店は全焼し、一家は全てを失った。十六歳の森村にとっては大変なショックであったことは間違いない。 ―中略―
焼け残ったものとか、売りに出たものまでなんでも荷車に積み、それだけではまだ荷が少ないので、友人で日本橋菓子商栄太郎の荷物も乗せて一緒に運んでいる。
二人は並んで店を張り、栄太郎は荷車に炭のコンロを置いて金鍔を焼いたと云う。
夜になって商売が終わると栄太郎は「市っあん(市左衛門氏のこと)そろそろ帰ろう」と声を掛け、二人してガラガラ荷車を引きながら、売れ残った金鍔を食べるのが日課だった。」



目に浮かんできそうな栄太郎少年と森村氏のとても素敵な金鍔エピソードは後世にも語り継がれています。
当時使用していた屋台は関東大震災で焼失するまで藏の天井に畳まれて吊るされてあったと聞いており、荷車に乗せられるほどの大きさというものから簡単に組み立てられるものだったのかも知れません。

金鍔という菓子が江戸庶民の菓子として大福餅などと共に現れたのは、享保年間(1716-1735)の頃と言います。
諸説ございますが、それ以前は貞享年間(1684-1687)に粳(うるち)の皮で赤小豆餡を包んで焼いたものが京都清水坂に現れ「銀鍔(ぎんつば)」と称して売られていたそうです。
これが江戸に渡り、形が刀の鍔のようであり、皮も小麦粉に変えて焼き色が付き黄金色に見えたことから「金鍔」と名付けられたそうです。金鍔の全盛は文化・文政の江戸末期と言われています。

榮太樓の金鍔は餡を小麦で練った種で出来るだけ薄く包み、丸く形を整えたものにごま油を引いた銅板で香ばしく焼き上げます。江戸の幕末時代から一度も途切れず、現代まで丸い金鍔を継承しているのは榮太樓だけです。

そんな当時の屋台の金鍔を再現した「焼きたて金鍔」は日本橋本店のイートインスペース「Nihonbashi E-Chaya」でお召しあがりいただけます。
ぜひ初代の金鍔エピソードを思い浮かべながら、江戸の変わらぬ屋台の味をご賞味くださいませ。