今回は「井筒屋(いづつや)」についてのお話です。
日本橋に開業する前の井筒屋時代について教えてください。
榮太樓總本鋪は井筒屋時代を含めて今年で創業206年を迎えました。
文政元(1818)年に埼玉県の飯能で小さな菓子業を営んでいた細田徳兵衛が二人の孫を連れて江戸へ出たことから始まります。
当時のことは榮太樓物語内でこのように述べられています。
細田徳兵衛が文政元年(1818)長孫安太郎と次孫安五郎を連れて出府し、九段坂で拳煎餅を売りだし、やがて「井筒屋」と号して店を構えたのが井筒屋時代の始まりであり、その後、安太郎、安五郎を経て、安五郎の息子 栄太郎が安政4年(1857)に、今の本店の地に一店舗を構え、やがて屋号を「井筒屋」から「榮太樓」に改称する迄の間の時代を、ここでは井筒屋時代と称しています。
ちなみに井筒屋で焼いていた拳煎餅(けんせんべい)とは、小麦粉を主原料とした瓦せんべいや玉子せんべいのようなもので形や絵柄が籐八拳(とうはちけん)の庄屋と狐と鉄砲になっているものです。
さて、井筒屋は祖父徳兵衛が亡くなった後、困難の時代を迎えます。
祖父、徳兵衛の死後、井筒屋を継承した長孫の安太郎は、父が飯能で二代目徳兵衛を襲名していたので、自らは、安兵衛を名乗ったのである。これが細田家の今日迄継承されている「安兵衛」の始まりである。安兵衛の名を継いだのは、実父と叔父を江戸の流行り病で亡くした栄太郎でした。安太郎の甥である栄太郎が、この細田家本家を継承して細田家九代目となって行くのである。
ここから榮太樓總本鋪では代々当主が「安兵衛」を襲名し、現在は「七代目安兵衛」へと引き継がれております。
幼い栄太郎は父・安五郎を助けながら日本橋の袂(たもと)で金鍔を焼いて売っていました。当時魚河岸で働くお客様たちに可愛がられ、その評判が広まり繁盛してお店を開業したと聞いております。
しかしながら、順風満帆ではなく栄太郎がお店を開業するまでには幾多の苦難の時代がありました。榮太樓物語ではこう語られています。
長男栄太郎が親を助けて働いていた姿に、孝子栄太郎の名が広まったのである。
安五郎は、そのような中、兄安太郎の病気見舞に行き、流行り病に感染、兄の死後四日、嘉永5年(1852)10月に急逝。父安五郎の死後、栄太郎は本家断絶を憂い、叔父であった本家の跡目を相続、自ら細田家九代目を継ぎ、同時に屋号も「井筒屋」を継承したのである。
文政元年(1818)細田家六代目徳兵衛が飯能より出府江戸九段坂付近で、「井筒屋」と号して菓子商を始めてからの井筒屋時代の歴史は約40年間、以上のような経過の後、やがて「榮太樓」へと移って行くのであるが、いずれにしても、幕末世情不安に加えて、その生活も困窮を極めていたことは間違いないと思われる。
しかし、この様な丼筒屋時代にあって、安五郎の菓子職人として優れた技術が実子栄太郎に伝承され、金鍔の評判をとり、さらに後年、梅ぼ志、甘名納糖、玉だれはじめ、数々の榮太樓の銘菓を生む基となったことは事実であり、忘れてはならないことである。
この時栄太郎は19歳。若くして父、叔父を亡くしその意志を継ぎ菓子業を継承し一店舗を築くほどに成長しました。
その努力の中で榮太樓初代が生み出した数々の代表菓子「金鍔」「梅ぼ志飴」「甘名納糖」「玉だれ」は現在も当時の製法と変わらず受け継ぎお客様に愛され続けています。