榮太樓

9月のお話し-榮太樓飴の話-

代表菓子である「梅ぼ志飴」をはじめ、その他にも「榮太樓飴」と呼ばれるあめがたくさんあります。
今回は榮太樓飴についてのお話です。

「梅ぼ志飴」の他に、現在「黒飴」「抹茶飴」「紅茶飴」などを
「榮太樓飴」と呼んでいますが、この総称はいつから使われているのでしょうか?

現在、百貨店などで販売している「榮太樓飴」と呼ばれるシリーズは全部で6種類あります。
梅ぼ志飴」(安政年間)から始まり「黒飴」(明治中期)、「抹茶飴」(昭和27)、「紅茶飴」(昭和34)と続々発売されてきました。そこから50年経った平成21年に「のど飴」、平成28年に現時点で一番新しい「バニラミルク飴」へと続いています。
「榮太樓飴」という総称について榮太樓物語では平成8年(1996年記)でこのように述べられています。

先ず「榮太樓飴」という呼称ですが、戦前は勿論、戦後も昭和二十年末頃迄はありませんでした。
それは、戦前榮太樓の飴と云えば、梅ぼ志飴しかありませんでしたし、(黒飴はありましたが、販売量は極少量でした)戦後も、やがて黒飴に加えて、抹茶飴も作られましたが、暫くはそのような総称は必要がなかったのです。


160年余りの歴史がある「榮太樓飴」ですが、当時はそのような総称がなかったこと、必要がなかったことを初めて知りました。
実際にはいつ頃から、どのような経緯でその名前が始まったのか。そのことについてこう記されています。

昭和三十年前後、榮太樓が鉄道弘済会(現キヨスク)や、当時の列車内販売を請け負った日本食堂、帝国ホテルなどと取引をするようになってから、榮太樓飴(梅ぼ志飴、黒飴、抹茶飴、紅茶飴)の総称として言われるようになり、それが世間一般に通るようになった。
「榮太樓飴」という総称が生まれたのは、車内の売り子が「東京みやげ 榮太樓の梅ぼ志、黒飴、抹茶入り梅ぼ志はいかがですか」と言うのでは、呼売りの文句としてはいいにくいし、とくに「小田原名産 梅干」と混同されることもあって、彼女達の間で、「金太郎飴」とゴロも合うことから、自然発生的に「榮太樓飴はいかがですか」という言葉が出来上がって来たようだ。
この様ないきさつから、やがて社内でも一般用語として使われるようになり、やがては榮太樓の有平糖タイプの飴の総称として使われ、また容器にも標示されるようになったのである。



明治、大正時代の頃からありそうな総称名ですが、意外にも名前が浸透してまだ70年ほどの歴史であったということです。戦後の抹茶飴発売以後、少しずつ飴の種類が増え始め昭和39年(1964)には新幹線も開通し、本格的に東京みやげとして榮太樓の飴が全国に広まっていきました。

当社は10月3日を「榮太樓飴の日」(平成30年一般社団法人日本記念日協会より認定)としており、本店の開業者「細田栄太郎」の誕生日(1832年10月3日)が由来となっています。
令和3年(2021)より毎年10月に新しい味の榮太樓飴を発売しており、一年限定で大変ご好評をいただいております。
長年培ってきた飴の技術を最大限に活かし、最高の味をコンセプトにこれからも榮太樓は飴を作り続けていきます。