それが実店舗を構えた数年後に「榮太樓」に変わります。これはお店を開業した細田栄太郎の幼名から名付けられたもの。
今回はこの屋号のお話しです。
何故「井筒屋」という屋号を「榮太樓總本鋪」に変えたのですか。
また、それはいつからですか?
幼名を「栄太郎」と名乗っていた細田家九代目が、「井筒屋」の屋号をもって、両親や幼い弟妹の面倒をみながら屋台店で「金鍔」を売っていた頃、集まる客の間では、商圏も日本橋魚河岸という狭いこともあって、誰もがこの店を「井筒屋」とは呼ばず「栄太郎ちゃんの店」と呼ぶようになりました。
安政四年に一店舗を構えるようになってからも、お客様の間では「井筒屋」よりも「栄太郎」の名前の方が相変わらず知られていましたので、いっそのこと屋号を幼名ずばりの「栄太郎」にしたら、と言うことで変更したのです。ただし「郎」の字では屋号にふさわしくない、と言うことから「樓」の字にしました。
また「總本鋪」と言う称号を下に付けたのは、当時でも本家であることを表すと同時に、その後の本店、支店関係をはっきりさせておく必要があったのだと思われます。
しかし、最初は「榮太樓」だけであったようで、「總本鋪」をつけたのは、若干後年のことのようです。
屋号変更の時期のことですが、安政四年(1857)四月二十九日の開店の日からと思われますが、そうではありません。
その後の万延元年(1860)にはまだ「井筒屋」であることが明らかになっています。
江戸にあった京都嵯峨御所大覚寺出張所が江戸を引き払った時、すなわち慶応三年(1867)五月二十四日より以前であることは確かですから、万延元年の翌年、即ち文久元年(1861)から、慶応三年(1867)の間であると言えます。