今回はこの「赤玉石」についてのお話です。
榮太樓本店に、大きな赤い色をした立派な石が据えられていますが、
その由来は何なのですか。
一般的に「赤玉石」と言われ、赤い色合いが特徴的で新潟県佐渡市などで採取される石のことです。
佐渡と言えば、江戸時代は金山として有名で、ここで採掘された金鉱石は地金として江戸に送られ「金座※」で金貨に鋳造※され通貨として発行されていました。
榮太樓の赤玉石は生まれたままひと塊の石そのもので、欠けて出土したものではなく赤い色も優れていることから銘石として高く評価されています。
この赤玉石は一体いつから、どのような経緯で榮太樓にやってきたのでしょうか。そのことについて榮太樓物語の中でこう述べられています。(榮太樓物語1996年8月記)
金座の頭である金改役は、「後藤家」が代々の世襲で勤めていました。そして極印を刻していたのです。このようなことから後藤家は、佐渡金山への支配力も強く、交流も深く、又大富豪でもあったわけです。
明治二十二年頃の或る日、縁あってこの屋敷を訪れた三代目安兵衛(榮太樓初代)は、案内された客間から眺められた庭に据えられたこの「赤玉石」を見て感銘を受け、「この絵とあの石をお譲り下さるなら、このお屋敷も一緒に買受けましょう」と申し出、その結果なんと家付きでこの絵と石を手にしたのでした。
一目見た榮太樓初代がこの赤玉石に魅了された光景が浮かびます。
しかし榮太樓初代が目にした赤玉石はほんの一部だったということをこの後知ることになります。
榮太樓物語ではこう述べられています。
屋敷付きで求めた赤玉石は、早速、出入りの植木職と折箱屋の手によって掘り出されたのだが、外に出ていたのは半分もなく、そこに生まれたままの見事な名石の全容が出現したと云う。
本店入口左側の柵に囲われた一坪にも満たない庭に、一本の松の根元に据えられた赤玉石は、以来好事家の間では、榮太樓の赤玉石として評判となった。
大変幸いなことに関東大震災の直前に新築、完成した四代目安兵衛の自邸の庭石として移したために災害を逃れ、更に大東亜戦中、四代目が転居した自邸に移され、戦禍をも免れたのである。
榮太樓が譲り受けて130余年、大正関東大震災をはじめ、その後の戦禍を乗り越えて今もその姿を現存しているこの赤玉石は榮太樓の歴史を長く見守って頂いている名石です。
実は佐渡の赤玉石は邪気を祓い、幸運と安定をもたらす縁起の良いものとされています。
是非、日本橋本店へお越しの際はこの赤玉石をご覧いただき、触れてみてください。
2024年11月
※金座とは・・・江戸幕府から大判を除くすべてに金貨の製造を独占的に請け負った貨幣製造機関のこと。現在の日本銀行に相当する役割を担っていました。
※鋳造とは・・・溶かした金属を型に流し込んで製品を製造すること。