榮太樓

8月のお話し-榮太樓工場の図の話-

日本橋本店入口に飾られている明治時代の工場図。
今回はそのお話しです。

本店店頭入口に飾られているディスプレイや、しおりなどに使われている
「榮太樓工場の図」とはどういうものなのですか。

正式な画題は「日本製菓子舗 榮太樓本店製造場略図」といいます。
明治18年(1885)5月、英国ロンドンのサウス・ケンジントンで開催された「万国発明品博覧会」に榮太樓がこの画題で出品参加しました。そこで製造工程説明をするため、当時写真などない時代に初代の知人であった画家の柴田真哉氏にお願いして工場の様子を描いてもらったものです。当時の風俗画として貴重なもので、中央区民有形文化財の指定を受けています。
榮太樓初代の姿や当時の商品の製造工程が描かれている貴重な資料で、画題に「榮太樓」という個人店名が付いていることは極めて稀なようです。

現代では当たり前に映像や写真が残されていますが、明治当時はまだ映像技術なども発展しないですから、歴史の記録は絵や文字を通じて伝えられている書物がまだまだ多い時代です。この頃はまだ本店しかありませんから、一店舗で売る量としてはこの人数で十分すぎるくらいだったのかも知れませんね。

この絵を依頼された柴田真哉氏は工場内人物や設備、道具などを細かいところまで現場でスケッチしていて「正午から出向き帰宅は夜10時」と記録があることから、8時間近くスケッチし続けていたことを想像します。柴田氏が残した当日の貴重な模様が記されています。(明治18年1月)

「明治十八年乙酉一月十八日 榛原君ご入来にて、此度英国発明改良博覧会へ、細田氏出品の附属品にて、菓子製造の図、認むる様お申越、就いては実際写生として同家出張致す様との事とて、同午後一時半、榛原氏へ参り直ちに細田家に出掛け、写し帰宅は時に十時になりき。」

この絵の内容を説明します。
中央の眼鏡に羽織姿で立っているのが細田栄太郎こと安兵衛三世。職人の作ったものに対して真剣な面持ちでチェックしています。「こちら確認いただけますか」「ふむ、まずまずだが良い出来栄えだ」絵を通じてそんな会話が想像できます。

この絵の中に創製菓子が三つあります。
写真左上の「梅ぼ志飴」、その右隣の「玉だれ」、写真中央上の「甘名納糖」は今でも当時の製法と変わらず伝統を受け継がれている大切な商品です。

この工場の図を出店した動機などについて榮太樓物語でこう述べています。

「私は、この絵を見るたびに、いつでもどうしても理解出来ない不思議な思いにかられることが二つある。
その一つは、何故明治18年にこのような国際的イベントに榮太樓初代が参加出品したのか。かなりの経費なども考えるとき、その理由や動機である。
その二つは、当時ロンドンまでは少なくとも1ヶ月以上の船旅が考えられるが、それに6ヶ月の会期を加えればいくら羊羹、打物、糖化菓子でもその頃のパッケージ技術などから見て展覧に供せられるだけの品質保持が可能だったか、ということである。
そしてこの絵が明治初期に遠くロンドンを往復して無事帰国し、今日私の手元に存在しているという素晴らしい事実に深い感動を覚えると共にこの二つの不思議な出来事を画中の榮太樓初代に問いかけてみたい気がしきりとするのである。」


まだ包装技術もままならなかった明治時代によく長い船旅に耐えられたという事実に驚きを隠せません。またこの時代に海外出展した動機はいち早く和菓子の素晴らしさを世界へ伝えたい、榮太樓初代のそんな強い想いがあったのかも知れませんね。

最後にこの柴田真哉氏の「日本製菓子舗 榮太樓本店製造場略図」は昭和63年(1988)日本美術院が設立百周年を目標に10年で全15巻を発行する「日本美術院百年史」の第一巻に掲載されました。
榮太樓という一個人菓子店の名がこのような美術作品の一つに掲載されたということは、非常に名誉ある記録であり、榮太樓にとって家宝そのものなのです。
お近くにお越しの際は是非、榮太樓本店入口にある「榮太樓工場の図」を直接ご覧いただけたら嬉しく思います。