榮太樓
ネットショップ大賞

6月のお話し-ニューヨーク進出の話-

現在では、和菓子は海外でも多くの方に親しまれていますが、当社では昭和50年(1975)、まだ珍しかった和菓子をニューヨークで販売しておりました。

榮太樓が海外ではじめて和菓子を販売していたのはいつ頃の話ですか?

今から50年ほど前の昭和50年(1975)に、当時和菓子業界での海外、アメリカ東海岸への進出は初めてであったと聞き伝えております。
当時高島屋の子会社であった高島屋エンタープライズと業務提携をしてニューヨークに和菓子工場を造り製造販売をしていたことがはじまりです。

ニューヨークのマンハッタン五番街にある高島屋、ロングアイランドの高島屋カールプレイス店の二店舗で販売をしていました。
ニューヨークに進出した際に三つの目的がありました。

一つ目は遠く祖国を離れて活躍している日本の人達に、本物の新鮮な和菓子を召し上がっていただきたいこと。

二つ目は、これから国際化時代のなかで、海外での当社の実力を試してみたい。

三つ目は、新しい世代に残せる新しい味覚の発見への期待。

現地で長期間生活する環境のなかで本当の意味で日本にはない新しい味覚が開発されるのではないかという期待が込められていました。

現地工場では、煮豆釜から餡煉機など製餡機械一式と、餅つき機、蒸し機など一通りの製菓機器が設置されており、当時販売されていた和菓子は合計九品。上生菓子が四品、茶饅頭、黄味しぐれ、金鍔大福楼(たかどの)などでありました。
値段は45セントから65セントほどで、当時の日本レートで計算すると150円~200円ほどで売られたそうです。
昭和50年当時の金鍔が1個60円であることからその設定は高いようであります。それでも一日800~1,000個くらい作られたお菓子は日によっては午後三時頃に売り切れになるほど好評だったといいます。
ちなみに「楼(たかどの)」は現在日本橋本店限定で販売しているお菓子ですが、当時はニューヨークで売られたお菓子で昭和天皇が訪米された折にご調進した中の一つです。

当社は昭和56年(1981)5月、ニューヨーク工場の契約満了により海外事業を終結しましたが、令和6年(2024)秋より半世紀を経て再び本格的に海外での活動を開始しています。
日本食が世界中に広がる一方で、和菓子の認知度はまだまだ高くありません。
和菓子の魅力をもっと海外に伝えたいという想いから再び世界への挑戦として歩み続けております。